【台湾の反応】97歳の元「台湾人青年労働者」 戦争の恐怖再来に嘆き-台湾反応翻訳まとめブログ
            

【台湾の反応】97歳の元「台湾人青年労働者」 戦争の恐怖再来に嘆き

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ロシアのウクライナ侵攻は戦争の引き金となり、潜在的な紛争地域である台湾の人々は、戦争の起こりうるリスクをより強く意識するようになった。


第二次世界大戦中、台湾は日本の統治下にあり、1942年から日本は台湾の子どもたちを徴用し、軍用機の部品を製造・生産するために日本で働き、勉強させた。


嘉義市に住む97歳の郭務辰(かく・むちん)さんは80年近く前、経済が急速に衰退し、戦争で民間の資源が徴発された時代に日本に滞在していたことを思い出す。
彼は、高射砲に命中した爆弾が「空で燃え上がる」のを目撃し、燃えるような赤い色だったこと思い出し、戦争の残酷さを物語る。


そう。戦争は残酷だった。

郭務辰さんは1926年、日本統治時代の昭和元年に生まれ、故郷は嘉義県梅山郷太和である。
第二次世界大戦中、日本軍がアメリカ軍と戦争をしていた頃、日本では軍用機がどうしても必要だった。人手や部品が足りないので、台湾から人材を集められていた。郭沫若もその中の一人であり、留学をしに日本へ行っていた。


留学先の学校では、授業の半分は労働だ。5年働けば、卒業証書と技術免許が取得できる。
18歳で日本行きを決意し、試験に合格し、1943年に浅間丸で高雄港から日本に渡り、横浜の海軍航空技術廠で軍用機の部品作りを学ぶ。また、横須賀海軍工廠の造船所にも勤務していた。

10代の従業員とともに、研究開発のための部品づくりを担当したが、新しい設計は失敗することが多く、何度も作っては捨てられることが多かった。
郭務辰さんは台湾爆撃のニュースを聞いたとき、日本人が「台湾が燃えているのを見ろ」と言っているのを聞いて、「次は日本が燃やされるかもしれない」と思った。
そしてその後すぐに、アメリカによる日本本土への空爆が始まった。

「戦争は本当に恐ろしい、体験しないとわからないだろう 」郭務辰さんは、工場の上空を何百機もの米軍機が飛んでいるのを見たという。

投下された爆弾は、高射砲弾に当たって空中で燃え尽きた。


日本が攻撃されたとき、経済は一気に崩壊し、国民は物を奪われ、悲惨な生活を強いられた。

敗戦後、郭さんは工場勤務を終え、半年余り日本に滞在している間に、日本の悲惨な状況を目の当たりにした。その後、1946年に台湾に戻った。

幸い、兄の仕事を手伝いながら44歳で嘉義市に移り住み、70歳で引退するまで過ごした。

郭さんによると、一緒に日本に行った台湾の10代の若者たちは、台南州で約2000人、嘉義で約500人だという。
一緒に日本に行った「同級生」は、年に1回集まって歌ったり昔話をしたりしていたが、10年程前からそれも無くなった。
同級生のほとんどは、高齢になったのか、携帯電話を変えたのか、亡くなったのか、3、4年前から連絡が取れなくなっている。

郭さんは90歳を過ぎた今も、竹やヤシ殻、木を使ってオリジナルの二胡を作り続けており、それを求める友人もいるそうだ。
時々、「台湾人青年労働者」だった過去を語り、若い世代に戦争の悲惨さを伝えている。

嘉義市97歲的郭木欽,曾在日本見證第二次世界大戰。(記者林宜樟攝)

とある台湾人:1

97歳とてもタフ!!


とある台湾人:2

誰も戦争を望んでいません。しかし、平和のためだからと行って、民主主義と自由を犠牲に戦争から逃げる事はできない。


とある台湾人:3

おじいちゃんは戦争を経験したことがありますが、戦争を経験した事がない若者は、平気で戦争に向かうだろう


とある台湾人:4

とても若く見える


とある台湾人:5

80歳くらいのような気がする


とある台湾人:6

すごい


とある台湾人:7

私のおじいちゃんは、当時はたくさんのお金を稼いだと言っていましたが、物資の不足は感じなかったようですよ。


とある台湾人:8

蔡英文の父もそうだったよな


とある台湾人:9

台南に10代の若者が2000人しかいなかったとは想像しがたいですね〜


とある台湾人:10

私の祖父は海南島に送られた、そして私の祖父の隣人全員が死んだようだ


引用:https://onl.la/XudXisx

        

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